ダンボ7「ジャンボ夫人の犯した罪について象たちが話し合う」
人間に暴力を振るってしまったジャンボ夫人は隔離室に入れられてしまいました。ジャンボ夫人のやったことについて象たちの会話が始まります。
Darling, it was so funny.
象「あなた、とても面白かったわ。」
日本でdarlingと聞くと、彼女が彼氏に向けて「ダーリン」と呼ぶイメージがありますが、男性が女性に対して言ってもいいですし、とても親しい仲の良い友達や子供に対しても使うことができます。
Oh my dear, can you bear it?
象「あら あなた、我慢できるの?」
助動詞canを使った疑問文「~できるの?」です。
⇒「助動詞canとは」
When she doused the ringmaster, I just thought I’d die.
象「彼女が舞台監督をびしょ濡れにしたとき、まじで死のうと思ったわ。」
従位接続詞のwhen「~のとき」を使った副詞節が主節を補足しています。
⇒「従位接続詞whenとは」
従位接続詞のthatを使った名詞節(I’d die)が文の目的語になっています。ただし、この文ではthatが省略されています。
⇒「従位接続詞thatとは」
When she doused the ringmaster, I just thoughti’d die.
Well, personally, I think she went a bit too far.
象「まあ、個人的には、彼女はやりすぎだと思うわ。」
従位接続詞のthatを使った名詞節が文の目的語になっています。ただし、この文ではthatが省略されています。
⇒「従位接続詞thatとは」
went a bit too farは「やりすぎた」という意味でよく使うフレーズです。この単語だけで意味を解釈するのは難しいので覚えておきましょう。
I think~は「~と思う」という自分の考えを述べますが、自分の考えであることを強調したいときはpersonallyを付けます。日本語でも、あくまで自分の意見ということを前置きしておくときに「個人的には、~だと思う」と言います。それと同じイメージです。
Ithinkshe went a bit too far.
After all, one mustn’t forget one is a lady.
象「とにかく、女性であることを忘れてはいけないわ。」
助動詞mustを使ってmustn’t「してはいけない」を表現しています。
⇒「助動詞mustとは」
従位接続詞のthatを使った名詞節が文の目的語になっています。ただし、この文ではthatが省略されています。
⇒「従位接続詞thatとは」
After all, onemustn’t forgetone is a lady.
Oh, you’re right, Tina
象「ええ、そのとおりだわ。」
最後に何か言っていますが、何と言っているのでしょうか。。私にはティーナと聞こえます。ちなみに、左側の象の名前はメイトリアーク、右側はギグルス。
ネイティブに聞いてもらったところ、Tinaという名前を呼んでいるのではないかとの回答をもらいました。んー、メイトリアークのあだ名だろうか。。
Oh well, I suppose that’s mother love.
象「まあいいか、母の愛ってやつね。」
Oh wellは悪い状況を受け入れて、まあいいや、仕方ないという気持ちを表現するときに使います。ただし、すべてこの意味になるわけではなく、Oh, wellのように、ohとwellを別々に捉える場合もあります。
supposeは「思う」という意味です。「思う」といえば普通thinkを使いますが、supposeは根拠は無いけど、何となく思っているときの「思う」で使う表現です。
But it’s certainly no excuse for what she did.
象「でも、それは彼女のしたことの言い訳にならないわ。」
no excuseは「言い訳にならない」という意味です。
関係代名詞のwhatを使った名詞節「~すること」が前置詞forの目的語になっています。whatは先行詞のいらない凄いやつです。
⇒「関係代名詞の省略」
Further love might cover a multitude of sins.
象「さらに、愛が多くの罪を覆ったとしてもね。」
いきなりレベルが上がってませんかね(・□・;)。この文の解釈についてコメント募集中です。Mother?んーFurtherに聞こえる。
multitude of sinsは「多くの罪」という意味です。
聖書の言葉に「Love Covers a Multitude of Sins(愛は罪をおおう)」という文があります。憎しみで罪を攻撃するのではなく、罪を愛で覆うことで罪の有害さを取り払うといった教えです。